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神原 啓文

静清リハビリテーション病院 院長
社会福祉法人 静岡県社会福祉協議会 会長

父をはじめ、いろいろな人との 巡り合わせで医師を選びました。

─医師を選んだ理由は?

「軍医だった父は、戦後、郷里の香川県で開業しました。午前中は外来、お昼をすませて午後2時くらいから往診、そして週に2~3回は夜中や朝方にも起こされて往診するというのが、父の暮らしぶりでした。まさに1日24時間1年365日が仕事のようでした。そんな父を手助けしていたのが、母です。当時は免許など必要ありませんでしたから、時に看護師、時には薬剤師と、父も母も忙しく働いていました。子供心に『大変だな~』と感じたこともありましたが、それ以上に思い出として残っているのは、患者さんに気軽に、明るく話しかけていた両親の姿です。だから、医師という職業にマイナスイメージを持ったことはありません。そんな忙しい両親でしたから『勉強しなさい』などとは言いません。でも、小学校の友だちに誘われて受験した学校が、中高一貫の先駆けとなるような教育熱心な学校で、勉学の環境には恵まれていました。また、2歳年上の従兄が京大の医学部に進んだということもあって、医学部を選びました」。

いろいろな要素が、神原先生を医師の道に誘ったようです。

先輩の助言により、 米軍病院を目ざしました。

─どんな大学時代でしたか?

「最初の1年半くらいは、安保闘争で世の中が沸き立っていました。京大もその例外ではありません。私のクラスも、ほとんどのクラスメートが安保について熱心に討論し、デモにも参加していました。午後3時半くらいに授業を終え、他の大学の学生と合流して市内を行進する。みんな、国の行く先とまじめに向き合っていたと思います。もちろん学生の本分の勉学も、結構しっかりと取り組んでいました。
京大では、内科や外科だけでなく全科まんべんなく学んでいきます。やることも多く授業に明け暮れるようになっていきましたが、5、6回生くらいになると、卒業後のインターン先をどこにするかに関心が向き始めます。この時に貴重な意見をくれたのが、京大の従兄のクラスメートでした。横須賀の米軍病院でインターンをしていて、『勉強になるよ、ぜひ来なさい』と助言してくれたのです。当時の日本には、インターン制度はしっかり出来上がっていませんでした。行った先に熱心な先輩がいればしっかり教えてもらうことができますが、そうでない場合は見学で終わってしまうこともあったようです。対して、米軍病院ではインターン教育がシステムとして構築されていて、日本にいながらにして米国式診療を実際に体験できると言う状況でした」。

米軍病院で必須となる英語力を磨きに、5~6回生の時にYMCAに通ったそうです。

技術を教わったのは実践の場です。

─予定通りに米軍病院に?

「選んだのは、国内の米軍病院で最大だった座間の陸軍病院でした。当時は、ベトナム戦争のまっただ中です。戦地で負傷したり病気になった米兵はフィリピンにある後方基地の病院に運ばれるのですが、そこで手に負えないか引き続き治療を要する重症患者は日本に送られてきていました。陸軍の患者は、立川基地から大型のヘリコプターで座間の病院に運び込まれてきますが、マラリア患者から銃創を負った患者まで、症例も実にさまざまでした。500床程もある大病院で、12名のインターンが次から次に送られてくる患者の主治医となって受け持つのです。いきなりインターンが受け持つというと乱暴に思われるかもしれませんが、実際の医療現場では上級医が必ずインターンを指導、サポートしてくれます。手慣れるようになるまで、徹底して教え込むのです。教科書ではなく、病院の現場で汗をかきながら、しっかりとした知識や求められる技術が身につけられる。それがアメリカ流でした」。

基地周辺で生活するご家族の方たちも診察していたそうで、インターンの1年で30人くらい赤ちゃんを取り上げたそうです。

緊急時での対応ができるようにと、 循環器を選びました。

─インターン後にアメリカに渡っていますね。

「1年間のインターンを終え、大学病院等で1年ばかり無給副手をした後、渡米しました。アメリカでは当時から、医学の教育体制がシステム化されているだけでなく医療水準も高く、とても魅力的でした。また、米軍時代のインターン仲間も、ほとんどアメリカに留学していましたから…。それで、アメリカでレジデントに応募しようかと思いましたが、むこうでは医学部4年時には午後からは病院でインターンと一緒に研修し、実力をつけていると知りましたし、グループ・ディスカッションなどではやはり言葉のハンディを感じていたので躊躇しました。そのような訳で、インターン・マッチング・プログラムに応募することにし、セントルイス市民病院にマッチされました。翌年は、指導医の勧めで、ニューオルリンズで内科レジデントを開始、3年間勤めました。それから循環器科のフェローになったのですが、その理由の第1は、心臓疾患をしっかり勉強しておけば、救急医療の現場で1分、1秒を争う心臓発作時にも怖れずに対応できると思ったこと。もう一つは、指導者のお一人で世界的に著名な循環器のJ・E・Burch教授の薫陶を毎週のように受けられ、しかも米国の永住権(Green  Visa)を得るようにと移民局にアドバイスをしていただいたからでした」。

そして最後の3年間はフェロー、チューレン大学の教官を経験させていただき、帰国しました。

 

心筋梗塞疾患に対する リハビリを行いました。

─アメリカでの経験をどう活かしたのでしょう?

「心筋梗塞ですが、私が渡米する前には、大学病院では年に2~3人くらいしか入院患者さんはおりませんでした。一方、アメリカの病院では多い時には1日に2人くらいが入院。ところが、米国から大学に戻ったころには、食事の欧米化などもあり10倍くらいに急増していました。しかし、その対応方法は、アメリカとでは大きな違いがありました。アメリカでは10日ぐらいしたらリハビリテーションをスタートしますが、日本では、入院して3ヶ月近くは安静にしておくというのが一般的でした。リハビリの実際を見ていましたし、重要さも実感していましたから、身心の回復に運動を取り入れようと試み始めました。教授が関心を持ってくれたこともあり、病棟の空き部屋に自転車(エルゴメーター)を設置して、リハビリテーションを始めたのです。かつて、2階段の昇降台を使用していた先達もおられましたが、自転車なら漕ぐ力やスピードをコントロールできて都合が良く、また心電図モニターもしやすいのです。
リハビリの試みを始めて3年目の時、大学の体育科の先生がドイツ留学から帰ってこられました。その先生が学んできたのは、最新の運動療法でした。そのことを知った教授が、『その先生と話し合ってみたまえ』と言ってくれたのです。これがきっかけで誕生したのが、京大式運動療法です。体育館にモニターを運び入れ、患者さんの心電図やバイタルを測りながら、ウォーキングからスタートして卓球やバトミントン、飛ばないボールでのテニスなどを行います。この方式の良いところは、なんといっても楽しいこと。みんなで一緒にコミュニケーションをとりながら、低下した体力を回復し、精神的な自信を取り戻すことができることです」。

その後、各施設に普及していきました。

「今から8年ほど前に、この京大式運動療法の30周年記念式典が行われました。心臓リハビリ開始当初は、医師や看護師、運動療法士、栄養士など、最近よく言われるチーム医療の先駆け的な感じで、20~30人の患者グループでスタートしたのです。その式典に、最初からリハビリテーション参加した患者さん方も沢山見えられて、『先生に助けていただきました』と感謝と喜びの言葉をいただきました。心筋梗塞で倒れられた方が、その後30年も元気でおられるということは、当時としては考えてなかったですからね」。

現在、院長を務めている静清リハビリテーション病院は、脳血管疾患や大腿骨頚部骨折などを対象とした回復期リハビリテーション病棟です。疾患の違いこそあれ、神原先生は、今から数十年前にリハビリのモデルになるスタイルを作り上げていました。

医療サービスの スピードを考えました。

─自治体病院の独立行政法人化も手がけています。

「大阪赤十字病院で副院長を務た後、静岡県立総合病病院の病院長を任されましたが、6年後に、やっと独立行政法人化を行うことが出来ました。それまでは、ほとんどの重要案件は県や議会の承認を得なければいけないというのが、自治体病院のルールです。これには良い面もありますが、そうでないこともある。例えば、診療報酬の改定が3月にあったとします。その対応策、特に人事案件などを承認してもらうためには、9月の議会にかけ、早くても翌年度まで待たなければなりません。医師や看護師不足がはっきりしても、すぐに採用ができない。これらの時間的ズレは、医療サービスの遅れにつながります。独立行政法人にして、スピードを早めたいと思いました。しかし、病院の一方的な思いだけでは実現できません。県の理解が得られるように、できるだけ密なコミュニケーションをとることが必要でした。

その後、現在の静清リハビリテーション病院の院長と静岡県社会福祉協議会の会長職を依頼されました。どうしようか考えましたが、自分がお役に立てるならと引き受けました。『トライ&エラー』が、昔からの私の性分です。なんにでもトライしてみる。そして失敗したときは、どこが悪かったかを考える。そして、またトライです」。

       ◆

趣味は、最近はゴルフ、そしてサイクリング。
「健康のことを考えて、身体を動かしています。週末は京都の家に帰りますが、洛北周辺などで、サイクリングに出かけます。静岡にいるときも、晴れた日は病院まで自転車通勤です。他には、気分転換に時々フルートですかね。たまには、家内のピアノに合わせたりして、ポピュラーやフォークソングの楽曲を楽しんでいます」。