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玉内 登志雄

JA静岡厚生連 静岡厚生病院 病院長

難しさで選んだら医学部に。 そんな感じです。

─医師を目指したきっかけってありますか?

 「きっかけと言われても、医師の家系ではありませんし、これこれこう言うことでという特段のエピソードもありません。敢えて探すなら、中学三年生の時に鉄欠乏性貧血という病気になったことでしょうか。原因は身体の成長で、若年期にはしばしば見られるものです。夏休みが終わって二学期の始業式に久しぶりに会うと、背が急に大きくなっていた友だち、皆さんの同級生にもいませんでしたか?私がその例で、中学三年間で17㎝くらい背が伸びたのです。その成長に血液の生産が追いつかなくて貧血が起こり、三年生の夏休みは、毎日注射で病院通いしていました。その時の病院の先生が、とてもよく勉強をする先生だなって感じたことがあって、医師という職業に対して意識が向いたのかもしれませんね。でも、やっぱり、大学受験の時に医学部というのは難しいなと感じて、どうせ挑戦するなら難しい方が…というのが本当のところでしょうか。両方が合わさってこの道に、という感じです」。

 社会に出てなお勉強熱心な医師の思い出。敢えて難しい道を選んだ大学受験。このあたりに、玉内病院長の心構えが見えるような気がします。

せっかちですから、 すぐ結果がわかる科が…。

─外科の道を選んだ理由は?

 「専門を決めるための要素みたいなものが、自分の中に三つありました。その第一は、大きな科であること。細部を扱うよりも、内科や外科のように守備範囲が広い科の方に惹かれました。第二に、結果がすぐ分かること。自分がそうだからかもしれませんが、私たち、外科医って基本せっかちな性分で、結果をすぐ知りたくなるタイプの方が多いと思っているのです。こんなこと言ったらほかの先生方に怒られるかもしれませんけど…。そして第三に、その結果は自分の手が加わったものであること。これを全部満たすのは何科かということで、外科を選びました。当時、心臓外科や整形外科はそれぞれが専門になっていて扱いが別でした。胸や肺の外科が分かれている病院も多く、外科というと消化器外科を指し、私はそれを専門に選びました」。

 玉内病院長は「医療の基本的理念は延命」といいます。もちろん、この延命の意味するところは、医療の結果、より良い方に向かわせることで命を延ばしていくということ。この大きな責任に、自らの手で直接関与していくことを選択したのです。

手術をいっぱい手がける。 それが私の希望でした。

─医師という仕事をスタートさせた時のこと、覚えていますか。

 「卒業後の病院選びにも、選考基準みたいなものを自分なりに設けました。条件は一つで、手術がたくさんできるところ。外科を専門にスタートする以上、一つでも多くの手術を経験して、自分の腕を磨いていくことが第一と考えたからです。名古屋大学の関連病院の中で、最も遠くにある桐生厚生総合病院が、その条件を満たす病院でした。最初に手術室に立ったのは、そこへの勤務が始まって2ヵ月程経ってからで、確か1~2歳くらいの子どもの鼠径(そけい)ヘルニア、つまり脱腸の手術だったと記憶しています。手術と言っても、ヘルニア嚢(のう)という袋を切るだけという、わずか10分程度のものでしたが…。これを第一歩にし、後は順番で手術が回ってくるようになり、半年後には胆石の手術や胃潰瘍、乳がんの手術を行うようになりました。三年目になると胃がんや大腸がん、さらに胃がんの全摘手術や膵臓がんと、経験を重ねながら、次第に難易度の高い手術を手がけるようになっていきました。最初の病院の6年半で、小さい手術も入れて約600例は実施したと思います。あの時が、一番手術が多かった時代でしたね」。

 週2回ほどのサイクルで手術を手がける中で、消化器外科医としての経験を重ねていったようです。

がんを薬で消していく。 ここに惹かれました。

─先生は、乳腺の専門でもあると聞いていますが…

 「乳腺外科を独立した科とする病院が増えてきましたが、そうなってきたのは比較的最近の話で、以前は乳腺についても一般外科が診ていました。元々日本では、乳がんの患者さんというのはそれほど多くなく、独立した外来にするほどの必要性はそう高くなかったのです。そうは言っても、患者さんは全国どこにもいますから、一般病院の外科で対応してきていたのです。乳がんの手術というのは、消化器の手術に比べると難易度は高くありませんし、手術そのものが命に関わることはないと言っていいくらいです。多くの外科医は、手術そのものにやりがいのある消化器系の方を望む傾向があり、私もその中の一人でした。ただ、診る以上はしっかり対応するための知識が必要です。特に乳がんの治療には薬物の知識は必要不可欠で、その勉強をしなければなりません。袋井の病院時代あたりから、『誰かがやらなくては』という思いで関わるようになったのが始まりでした。

 ところが、知れば知るほど、乳がんと向き合うことに引き込まれていったのです。その理由は、がんを薬で消すことができるからでした。今では消化器系のがんでも薬物療法が取り入れられることが増えていますが、やはり外科的な処置が主流です。もちろん、乳がんも手術を省略することができませんが、その前段階として薬で治療を行うことが少なくありません。薬でがんを小さくしてから手術となるわけですが、実際に手術して取り除いた部位を調べてみると、その約3割はがん細胞がなくなっており、薬でがんが消えているのです。つまり、乳がん治療においては、手術だけで決まるわけではなく、抗がん剤やホルモン治療などを含めた、個々のケースに応じての対応が求められるわけです。悪いところをメスで切り取りするのが本分の外科医にとっては信じられない話で、ただただ驚くばかりでした。あれから、ここ20年は乳がんの本ばかりを読んで勉強しています」。

 手術だけでは完結しない乳がんの治療。身につけなければいけない膨大な知識。やはり、難しいものに引きつけられる性分のようです。

ケアミックス型医療機関として 存在感を増していきたいですね。

─病院長になって12年目を迎えていますが課題は?

 「今考えていることは、この病院独自の強みを明確に打ち出していくということです。例えば診療科について言わせていただくなら、整形外科があります。手の外科、股関節外科(寛骨臼回転骨切り術、人工股関節置換術など)、変形性関節症の治療を特徴としていて、関節の手術の症例数は県内では二番目。再手術で他の病院からまわってこられる患者さんもいます。また、リウマチ科も市内一帯では最も大きな規模での取り組みとなっていますし、婦人科は腹腔鏡下手術を取り入れています。これら診療科ごとの強みは、さらに伸ばしていき、しっかりアピールしていきたいと思います。

 病院全体の方向性についても、お話しさせていただきたいと思います。弊院が、アメニティの完備した現在の療養環境を整えたのが2003年でした。以来、一般病床213床と回復期リハビリテーション病床52床の計265病床をもつ、静岡市中心部で唯一のケアミックス型医療機関として運営してきました。そして、このケアミックス型の必要性は、今後増々高まっていくであろうと考えています。期待の背景にあるのは、『地域医療構想』です。今、我が国では超高齢化に対応していくために、在宅医療の充実と並行して、病床機能の再編を進めています。具体的には、都道府県それぞれで地域に必要な医療機能を見直し、2025年に目指すべき医療提供体制の姿を『地域医療構想』としてまとめようとしています。静岡市の構想では現在の医療供給数と2025年の必要病床数には大きな変化はないとのことですが、慢性期の病床を減らさなければいけませんし、逆に回復期の病床がちょっと少ないという計算となっています。弊院では、これを見越して休棟していた病棟の急性期病床40床あまりを回復期病床として改装し稼働させることになっておりますので、今年の7〜8月には回復期病床は合計で95床となります。弊院の回復期病床にお迎えしている急性期を脱した患者さんは、脳血管障害や大腿骨頸部骨折等の原疾患以外にも既往症を抱えていることが殆どですが、万一、既往症の状態が増悪したとしても、院内の急性期フロアで概ね対応することができているため、元の急性期病院に戻らなくてはならないケースは原疾患の急性増悪以外では殆ど見られません。このメリットは、ますます増える高齢者の方々にとって、大きな安心となるでしょう」。

 ケアミックス型の医療機関としての存在を、さらに大きくしていこうというプランを持ち、すでに着手しているとのことです。

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「単身赴任ですので、週末は状況に応じて浜松に帰っていますね。最近では時間を見つけて、中国春秋戦国時代や日本の古代史をテーマにした読み物を手にすることが多くなりました。

年に一度、女房孝行に一緒に旅行に出かけますが、それも歴史に由来するところを巡っています。一昨年は青森の三内丸山遺跡でしたし、去年は数多くの愛の歌を残した万葉の歌聖・柿ノ本人麻呂終焉の地、山陰の岩見方面を訪れました。今年は休みが少なそうですが、法隆寺にしようと考えています。」

歴史物と言っても一番謎が多い万葉の時代が好みとのこと。やっぱり、玉内病院長は難しい方が性に合うようです。